猛者日記

大学生のブログです

呼び捨てとぜんまいざむらい

呼び捨てで呼ばれたいという願望が常にある。

もっと言えばいままで、“さん”とか“くん”を付けて呼び合ってた人が、呼び捨てに変化する瞬間に最も興奮する。呼び名の変化すなわち距離感の変化だ。もちろん、“さん”や“くん”を付けて呼び合うコミュニケーションは素晴らしい。それが社会ではなく、例えば友人関係での、対等な関係で尊敬の念を互いにこめてしていたならば、それはきっと世の中で一番美しい関係性だと思う。

だからこそ、そんな互いを思いやる・慮る気持ちがある人間同士が、ある時急に呼び捨てに変わる瞬間に興奮する。自分も他人にそう思われるようにありたい。

 

*

ぜんまいざむらい』を知っているでしょうか?


ぜんまいざむらい テーマソング ロングバージョン

曲メチャメチャカッコいい

NHKで2006年から2010年まで放送されていたアニメなのですが、この頭にぜんまいの乗った可愛い風貌の少年が主人公・ぜんまいざむらい

f:id:ippanshisei:20191018165715j:image

明治維新がなかった西暦2015年のからくり大江戸が舞台。

ぜんまいざむらいは悪行をする人間を見つけると、「必笑だんご剣」という剣を振りかざす。すると剣に刺さったダンゴが飛んでいき、それを食べた相手は幸せな気持ちになり、自然と悪行をやめ改心する。

 

ぜんまいざむらいがこうした善行をするにはわけがある。

それはぜんまいざむらいがこの世に生きるための代償であるからだ。

ぜんまいざむらいはぜんまいが止まると死んでしまう。

だが善行を施せばネジが巻かれ余命が伸びる。

そんな悲しき運命の象徴こそぜんまい

 

なぜこんな業を背負ったのか?これはぜんまいざむらいは、その頃、善之助という名のドロボウだったころに遡る。 善之助はこの日もダンゴ屋に忍び込み、ダンゴを盗もうとしていた。しかしその時、ネズミが急に飛び出てきたことで驚き、その弾みで井戸に落ちて転落死してしまうのだ。そこで神様が最後のチャンスとしてぜんまいを取り付け善行を行うことを強制したのだ。芥川龍之介の現代版と言えるだろう。

 

生き返ったと聞けば聖人、つまりはキリストを頭に浮かべる人も多いだろう。

だが、キリストは善行を積み、神に愛されたことで、再びキリストとして生き返った。

しかし、ぜんまいざむらいは悪行を積んだことで、神に愛されず、ぜんまいざむらいとして生まれ変わった。言わばぜんまいざむらいはキリストではなくゾンビに近い存在なのだ。

 

だがぜんまいざむらいの置かれた状況はゾンビよりもよっぽど性質が悪い。

ゾンビとぜんまいざむらいの最も大きな違いは周りに存在を望まれているか否かである。

ゾンビは周りから疎まれ、ぜんまいざむらいは周りから望まれている。そう言うと後者の方が聞こえは良い。

だがより自由に生きているのはぜんまいざむらいよりもゾンビなのだ。

 

ここでぜんまいざむらいをからくり大江戸における、善行をすることを目的としたロボットだと定義しよう。

 

ぜんまいざむらいは周りから望まれるが故、名前も生きる目的も奪われ、からくり大江戸という社会に滅私奉公する。

 

ぜんまいざむらいはロボット、否、神に定められた奴隷なのだ。

手塚治虫はロボットと人間が共存する社会を思い描き続け、私たちの時代に「ロボットは人間の奴隷ではなく人間の友達」というメッセージを残した。しかし明治維新を失ったからくり大江戸に、手塚治虫のメッセージは届かない。

 

ぜんまいざむらいの置かれた状況がゾンビよりもよっぽど性質が悪いと書いたのは、こうした状況を、ぜんまいざむらいをロボット的な奴隷として扱っていることをからくり大江戸に住む人々が、悪意をもってやっていないところにある。そして、悪意を感じてないというのはぜんまいざむらい本人にとっても言えることなのだ。

 

何故か?

 

それはぜんまいざむらいが過去に、泥棒という罪の意識に苛まれているからである。ぜんまいざむらいは泥棒である過去を忘れることを忘れることはない。いや、忘れることができない。善行を積むときに使う道具(ぜんまいざむらい的には生きるために必要な道具)それこそが、ぜんまいざむらいの罪を思い出させるダンゴだからだ。

 

「ぜんまい」そして「ダンゴ」

彼のトレードマークとも言えるアイテムは、彼を罪から逃れさせることも、忘れさせることもさせない。

 

社会という集合体が無意識にぜんまいざむらいという存在を欲し、それをぜんまいざむらい自身も受け入れる。

そうして出来た存在がぜんまいざむらい。公然に許された奴隷である。

 

ここでぜんまいざむらいの交友関係を見てみよう。

まず、からくり大江戸に住む人間。彼らは「ぜんまいざむらい」と肩書きで呼ぶ。

当然のことだ。上記で語ったように無意識が産んだ社会の奴隷がぜんまいざむらいだからだ。

 

f:id:ippanshisei:20191112133435j:plain

豆丸

次にぜんまいざむらいに弟子入りしている忍者・豆丸。呼び方は「ぜんまい殿」

これも当然だ。彼は、善之助でなく、ぜんまいざむらい、そのものに憧れを持って弟子入りそれゆえ許容範囲であろう。弟子が師匠を肩書きで呼ぶことに問題は無い。

 

f:id:ippanshisei:20191112133254j:plain

ずきんちゃん

ぜんまいざむらいが想いを寄せるヒロイン・ずきんちゃん。呼び方は「ぜんまい様」

これはとても悲しい。想いを寄せる相手から、毎日のように肩書きで呼ばれる悲しさ。オープニング曲の歌詞にはこうある。

 

ぜんぜん恋は実らないけど

 

毎日、「ぜんまい様」と距離を置かれるような呼ばれ方をしていてはこう思うのも仕方ないかもしれない。

f:id:ippanshisei:20191112133650p:plain

だんごやおばば

 最後にぜんまいざむらいを居候させているおばば。呼び方は「ぜんちゃん」

ここで一度立ち止まって欲しい。ぜんまいざむらいの本名は善之助である。つまり善之助という名前から「ぜんちゃん」と呼んでいる可能性はゼロでは無いのだ。もちろん違う可能性だってある。でも信じてみたい。おばばだけは、ぜんまいざむらいを1人の人間として扱っているのかもしれない。

 

ここで話をずきんちゃんに戻すと、ずきんちゃんは「ぜんまい様」という呼び方のほかに「ぜん様」という呼び方を使う。しかもそれを意図があるように使い分けている。つまり、「ぜん様」という呼び方は、ぜんまいではなく善之助から来ている呼び方なのかもしれない。

 

だがここで考えて欲しい。ずきんちゃんという名前もまた、その肩書きに依存した呼び名なのである。当のぜんまいざむらいもまた、からくり大江戸の住人と同じなのだ。恋が実らないのは彼自身のせいかもしれない。

 

*

呼び捨てで呼ばれたいという願望の前に、まず自分に固有の名前があり、その名で呼ばれている現状がもっと喜ばしいとことなのだと、認識するべきなのかもしれない。

 

*


ぜんまいな人生

歌詞を読むと、何だかんだ、ぜんまいざむらいも、いや善之助も楽しそうに過ごしているようで、嬉しい気持ちになる。